人生日記

思いつきの文章を綴っている日記帖

仕事に対するプライドがない

自分は一応ITエンジニアだけど、仕事に対するプライドとかがない。

プログラミングを始めた動機は

  • いろんなことのハックが出来る
  • AtCoderでレートを上げるのが面白い
  • サブカル分野で)ちょっとしたアプリケーションが作れる

くらいだった。こうした浅い動機なので、ソフトウェア工学に対する情熱とかがない。だから、大学入学時点で情報系を選んでいる人間より浅い。DDDとかクリーンアーキテクチャとかを、腰を据えて学習する意欲なんてない。自分の個人開発に役立つ部分だけをつまみ食いしたい、という極めて利己的な動機でしか動くことが出来ない。

 

中学くらいのときから感じていたことだけれど、俺は組織で働くことに向いていないんだと思う。これはASDの感覚過敏由来のものだろうけど、意識の底で恒常的に感じている慢性的な苦しみを抱えた状態で、そのうえ、そこまで強い帰属意識がない組織に対する貢献を求められる感じが。

 

でも、今は当時より頑張る動機はあるので、もう少し踏ん張ってみようとは思う。これも脆い土台の上に成り立っている動機だし、一時的なものに感じてしまうので、そのうち崩れてしまう可能性が少なくないのだけど。

昔の日記

2022年8月ごろの日記が出てきた。

ここ数日は生きる意欲がかなり消失している。

以前からずっと早く死にたいとばかり考えていて、ずっと過ごしてきて、最近はやっと薬のおかげでそこから抜け出したと思ったら、また薬など無視するような仕打ちがのしかかってきている。

それも、この先未来まで影響を及ぼすような仕打ちが…。

ストレスで頭が痛い。
まともな生活リズムを送れていない。
内臓は荒れている。
一切のモチベーションが消失している。

苦しみが積み重なっても、相談する相手なんかいないから…。

突発的に一人で死んでしまうと思う。
客観的に見て誰もがもったいないと思うかも知れないけれど、でも別に良かった。

外に出るのが苦痛だった。
見た目が醜い。
道路を歩くだけで苦痛だった。自意識が芽生えてからはそれに拍車がかかった。
皆、腫れ物に触るような感じだった。

生きて守らなければいけないものがあったら違ったんだろうか。
でもニヒリズムに勝つことはできない。
生きることに苦痛しかなくなったら、現世の幸福というまやかしがなくなったら、それはもう生きる理由はない。

さすがに今はこんな酷い状態ではないんだけれど、今のままストレスが慢性的にかかり続けたら、この状態に堕ちていくことが予期される。

 

認知、歪みすぎてるのかなぁ。

AIはめんどくさい

適切な表現かはわからないけれど、AIのせいで「これからこの領域は自動化されるんだから意味がなくなるかもしれない」みたいな虚無感が存在しながらも目の前の努力をしなきゃいけないの、精神的な面倒くささがある。

 

AIに関連して言うと、さいきんなんでもAIで自動化されてしまうなという感じで、"人"のことを考えられなくなってる。人を無機質に扱ってしまう。これはAI関係なく、自分のもともとのASD的性質と、最近のコスパ主義的風潮が重なった結果かもしれないが。

というかこれは今に始まったことではなく、コンピュータとかネットが普及し始めた時からの話ではあるんだろうな。

はるか昔のことのような、昨日のことのような

この1年を思い返すと、ネット経由でもリアルきっかけでも色んな女と会ってきた。

 

結婚願望がとても強く、付き合ってすぐに冷められた田舎のシンママ育ちのかわいい子。会った初回にプレゼントくれて俺のことを神木隆之介似だとかなんとか言ってくれたけど、ある時点でぱたりと連絡無くなった姉さん。渋谷で会って謎に食いつき高くてそのまま朝まで過ごした20歳くらいの子。大学の後輩にあたり、俺への食いつきが高かったけど結局好きになれなくて疎遠にしてしまった子。

3回会って仲が良くなったと思ったら唐突にブロックしてきたMARCHの院卒の子。東大出身のガード固いブス。会った中でずば抜けて教養があったけど遅刻魔で性格に難ありな天然美人の子。俺の反応が鈍くて、そのままキレて帰ったかわいい子。飲み会で会って、謎に俺への食いつきが高かったけど、マルチに染まりかけてたよくわからない姉さん。

 

1人目の子は今どき稀に見る、性格が良くて明るい子だった。けど、あまりにもバックグラウンドが違いすぎた。占いが好きと言っていたし、色々無垢な脆さを感じた。歳を取ったらスピリチュアルにハマりそうなタイプにも思ってしまった。そのまま付き合い続ける世界線があったら、どうなってたんだろう。

 

問題なのは、この中の1人も本当の俺のことを知らないということ。俺の本質はこのブログの文章に近い。俺の趣味だったり、オタク的な性質を知らない。だから、とても離人感が強かった。俺の本質を隠して付き合い続けたとて、どうなるんだろう。そこから入らないと、いつか終わりが来るんではないか。

 

誰と付き合っても、過去の男のことを考えてしまう。俺があまりにも負の学生生活を送ってきたし、今までの人生で歪な人間関係しか築けてこなかったから、その差を感じてしまう。まあ言ってしまえば、若い時に遊べていたか、健全な恋愛をしてきたかどうか、の差。(かといって、過去の男がいない恋愛未経験の子を十分に導けるほどの力量もないとは最近痛感しているのだけれど)

 

結婚願望が強いわけではないけど、仮に結婚したとて式に呼べるのなんざ親くらいしかいねえよ、という。

それにいつメンタルを崩すかわからない。俺の人生の最大のリスクはそこにある。

 

結婚して、子供がほしいか?と問われると、どうなんだろう。

子供があまり好きではないから子はいらないと思っていたけど、居たら居たでそれは楽しくもあるんだろうなと思う。でも俺が子育てしてるイメージが、あまりつかない。俺は「子供」がいるキャラではない気がする。なぜなら、俺自身がまだ、精神的に幼い。

なにか自分がなし得なかった期待を仮託するように子供を生むのも、違う気がする。ただそれでも、子供なく死ぬのは悲しい。未来に俺の子どもたちがいるとするなら、学歴はいらなし凄いこともなし得なくていいから、教養と知性と体力をつけて幸せに楽しく生きてくれと言いたい。生まれてくるかわからないけれど。

 

…こうして振り返ると、鬱病の引きこもりみたいな感じだった1年前と比べて、表面的にはかなり変わったのかなと思う。生きる意味ってなんだろう、ということと、ひたすら自殺のことか考えていなかった1年前と。

とはいえ、根本的な自信がない所は変わっていない。そもそもブログの文体が3年前から全く変わっていない。

verbalisierung.hatenablog.jp

資格思考に潜む死角

資格

会社で補助も出るし、実務でもちょいちょい使うのでなんとなくAWSに慣れ親しみたいと思って、今日はAWSの一番簡単な試験を受けに行った。合格はしたが、スコアが結構ギリギリで焦った。「楽勝」と聞いており、10時間ほどしか勉強しなかったのはまずかっただろうか。

 

最近、試験対策勉強のみならず、遍く事柄に対する勉強の感覚をまるで忘れてしまってる。勉強中も集中ができない。文字がスラスラと頭に入ってこない。頭が鈍っている。

 

そもそも、自分の人生の中で資格を取ろうとする時期は、きまって精神が病んでる傾向にあった気がする。浪人中に英検準一級の勉強をしていた時期や、大学の時に自分の専門に何も関係ない簿記の資格を「とりあえず」で取っていた時期もそうだった。

今回のAWS試験も、自分の人生の中でなんの位置づけになるのかあやふやな感じで受けてしまった。基本情報とかは、割とそんな感じで受けてしまって良い気もするけれど。

 

そんな訳で、最近はあまり頭が冴えない日々を送っている。残り少ない20代の貴重な時間を、ひたすら浪費しているような感覚。

というか最近、仕事のストレスやら睡眠不足やらで、老化が進んでる気がする。感性と共に味覚も死んできていて、ハーゲンダッツを食べてもなんの感動もなくなってしまった。

音ゲー

IIDXが楽しい。やればやるほど上達する感じが病みつきになってしまう。このままちょくちょく楽しくプレーしてたら、九段目指せる感。

音ゲー音ゲー以外の長期的幸福の実現の努力をする時間を削るような中毒性があるけれど、もう一生音ゲーは辞められないものと割り切って生きていくしかない。

 

昔からDJ TAKAが好きなので、いつか天空の夜明けとかラストダンスとか楽しく叩けるようになりたいな。

午前4時半

ふつうの人のようになりたい。

普通の社会人のようなコミュニケーション力や「それっぽく振る舞う力」を身につけなければ。

…そんな風にずっと思っていたけど、無理みたいだ。

 

俺みたいな性質を持つ人間がどうやったら幸せに生きることが出来るのか。誰か、生き方のロードマップを提示してくれ。無駄に悩まなくて済むように。

春は多幸感に包まれる

「なんのために生きてるのかわからない4~50代増えてるんだよね、孤独な。」とのことらしい。そうは、なりたくないなあ。。

 

職場と感覚過敏

5月に環境が少し変わる。

1年フル出社で働いてみて思ったが、ASDの感覚過敏を持ちながらフル出社で勤務するのは難しい、と感じた。小学生の頃から僅かにその感覚過敏の予兆はあったが、歳を重ねるごとに酷くなっていってる。食事の乱れが原因だろうか?

環境が変わった後も相変わらず仕事への集中が難しい、これだとひたすら生産性の低い時間を過ごすのみである、と判断したら、環境を大きく変えるのも検討に入れる。

 

ASD気質を備えていて、なおかつその気質をわかっている長期的なメンターや指導者がいない中、キャリアを考えるのは難しいなと思う。

親は子供を大学にさえ入れればよい、というスタンスだったので、全く参考には出来なかった。学生時代の自分に、適切な指導者を見つける主体性はなかった。

 

今の俺の最大の問題点は、自分のために生きてしまっている点だと思う。感覚過敏を備えていると、そのストレスで自分のことしか考える余裕がなくなってしまう。

今の俺が、このまま利己的にテイカー的に生きていても、殻を破ることが出来ないと感じる。何か利他的に生きるきっかけがほしい。本心から出ていない、上辺だけの利他性でなく、俺の中から自然に出てくる利他性が。

唯ぼんやりした不安

コンビニ人間

少し前から気になっていた「コンビニ人間」という小説を読んだ。

 

読み始めてすぐに「あ、この主人公、発達障害だな」と思った。

後から気付いたが、Googleでこの本を検索しようとすると「コンビニ人間 アスペルガー」と出てくる。世間でも、そういう認識らしい。

 

 

 

中軽度のASD持ちの自分としては、全体的に主人公に共感する部分が多い。

  • 「目的のない自由時間」を与えられると仲間はずれになるとわかっているから「タスクが明確に与えられた時間」を願うところ
  • 一般人への「擬態」を試みようとしているところ
  • プライベートな話題に踏み込まれると不利になると事前にわかっているからそれを避けようとしているところ
  • 人間の感情がないように見せかけて、微妙に人間としての共感性を残しているところ(それも、「一緒に喜びを分かち合いたい」というポジティブな共感ではなく「悲しませたくない」などのネガティブな共感)

などなど、書き出すときりがない。

 

多分、俺がASDでなかったら、この本はただ変人がコンビニで長年働く話を読ませられただけでオチも強くないし、面白いとは思わなかった、と思う。

「現代の実存を問い、正常と異常の境目がゆらぐ衝撃のリアリズム小説」と紹介されていたが、俺には「ASDから見た世界の映り方」をテーマにした小説としてしか読めなかった。

決めつけ強めかもしれないが、ひたすらこの観点で面白い作品だと思った。

 

 

発達障害啓発週間

話は変わるが、今、世間では発達障害啓発週間らしい。

今、個人的に「ASDアンチパターン」みたいなドキュメントを書いていて、どこかで公開したい。自分をグレーゾーンASDと認識できず、一般人と同じような生き方を目指してしまうASDが一番生き辛いと思うので。