人生日記

思いつきの文章を綴っている日記帖

スキゾイドの生存戦略

唐突だが、今日はスキゾイドについて書いてみようと思う。

というのも、スキゾイドについて描かれた以下のツイートが、かなり自分に当てはまっているのだ。(そしてこのブログを見に来るようなタイプの人の中には、一定数こういった人がいると思う。)

人はなぜスキゾイドになるのか

スキゾイドにも色々なタイプがいると思うが、自分の場合は後天的なスキゾイドに該当する。人がどのような過程を経てスキゾイドになっていくか、以下に書いてみる。

"ヒト"ではなく"モノ"へののめり込み

一番の原因として、思春期に人と交流しないタイプの趣味にのめり込んでしまったせいで不自然な対人方法しか身に着けられなかったというのが挙げられる。

具体的に話してみる(以下自分語り注意)

自分の場合は14歳までは割と普通だったが、14歳になってからニコニコ動画/音MADにのめり込んでしまったせいで、こうなった。中学三年の頃など、1日中脳内で音MADを作って過ごしており、部活にもほぼ行かなくなってしまったため、対人関係への思考リソースは極端に減った。

思春期にチームスポーツにハマった人などは、日常生活でも対人関係に割く思考リソースの割合が増えるだろうし、仕事でもチームづくりの方に興味が湧くようになるだろう。しかし自分は真逆の道を歩んでしまった。

ネットにのめり込むだけならまだしも、それが人間とのコミュニケーションを伴わないタイプのコンテンツだと、ついにはスキゾイド的な性質を帯びてきてしまう。

思春期に何にのめり込んだかによって、根本的な「人間」が違ってきてしまう部分は大きい。

"キャラ付け"されることを回避したがるようになる

当時の自分の行動原理としては「キャラ付けの回避」があった。

当時の自分はいかにネットでのびるコンテンツを作るかということが人生の全てであった。そのためには煩わしいリアルでのキャラ付けや関係はいらないと思っていた(実際そのおかげで一過性の再生数は得たりした)。

行事に打ち込む学校の人間に全く仲間意識を覚えることが出来ず、当然コミットするモチベーションなど起こらず、表面上だけ役割を担って「いかに自分の仕事を減らせるか」といった原理で行動していた(今振り返ると、こうした行動原理は人生に多大な機会損失をもたらした(特に筑駒という稀有な環境においては)が、当時は学校という閉じた世界での成功よりネット世界での可能性に比重を置いていた)

人と関わりたくないから、"よくわからない奴"と認識されることで様々な責任や面倒事を回避していた。

当然キャラ付けは人間が感情の動物である以上自然に発生するものであって、人間社会でそれがなければ極めて無機質で機械のようなものになってしまう。

デメリットをしっかりして「よくわからない奴」ポジションにつくのは良いが、しっかりとデメリットを認識せずに"キャラ付け回避"をし続けていると、不自然な人付き合いの方法しか知らず社会に出てしまうことになる。さらには社会で働き対価をもらう上での責任に対する感覚も鈍くなり、破滅に繋がりやすくなる。

自分の場合は、そのメリット・デメリットをしっかりと認識せずに、無意識にキャラ付けを回避してしまっていた部分は大きい。

Twitterスキゾイドに向いていないSNS

具体的なスキゾイドの特徴として代表的なのが、「ツイッターが大好きだが、アカウントをのばすのはめちゃくちゃ下手くそ」が挙げられると思う(そもそも「アカウントをのばす」という概念を勝手に作りそれに優劣を付けているのがスキゾイドたる所以かもしれないが)。

「単発のバズやツイート」で一過性のバズを生み出したりするのは得意なのだが、一貫した自分のキャラ付け/メタ認知や他者とのコネづくりが非常に苦手なので、長期での運用がとても下手なのだ。

何度かバズを経験するとわかるが、「バズるために必要なのは100個の弱小アカウントのRTより人気なアカウントの1RT」なのだ。クラスの人気者が面白がっているコンテンツは自分も面白いと感じてしまう。そしてクラスの人気者に気に入られるためには「クラスの人気者」といい関係を築けるだけの対人関係構築能力が必要である。もちろん大前提としてコンテンツ力や才能が最も必要なのだが、それを継続したりレバレッジをかけたりするために必要なのは他者との長期的な関係なのだ。

しかしスキゾイドは最初から無意識に人間関係をインスタントなものとして捉えてしまっている節があるため、それが極めて苦手なのである。

スキゾイドはリプライが苦手

自分は2010年からツイッターをやっているが、未だに、他人から来たリプライにどうやって返信すれば良いのかがわからない

「どうやって返信すればいいんだろう…?」とかいって上手い返し方を考えているうちに6~7分くらい経ち、「やばいそろそろ返事しなきゃ」となって堅い文章を返信してしまういうのがオチなのだ。こなれたツイッターのオタクがやっている流れるようなダル絡みラリーなどは、スキゾイドにとっては以ての外

これに対しては、ある程度タイプ別のリプライのテンプレートを作っておくのがおすすめである。

スキゾイドにどう対処すればいいか

まずは他者視点の想像が大事。

自分と全く同じドッペルゲンガーがいたとして、あなたは果たして、その「スキゾイドのあなた」に惹かれますか?と自問してみる。

スキゾイドによる苦しみがあるなら、良くないスキゾイド性質にはある程度対処する必要がある。

心の底では「人と接したい」と本当に思っていなくてもいいから、自分の無表情や無愛想で必要以上に他人を不快にしてしまっているなら、それを自覚するための仕組みを作る。

自分で思ってる以上に、スキゾイドの負の側面で他者に害を与えてしまっている部分があるかもしれない。そのため、まったくメタ認知をせずスキゾイドである自分を放置するなど何も対処しない状態でいるよりは、多少は上手く世渡りをする技術を覚える方が望ましい。

"ちょっと変わってるが面白いやつ"ポジションにつく

キャラ付け的な観点で言うと、「ちょっと変わってるが才能はあるやつ」ポジションにつくのが、スキゾイドの一つの選択肢だろう。

 

勝手に例に出して申し訳ないが、かの米津玄師もスキゾイド成分は比較的あると思う。

それがよく表れているのが、菅田将暉との関係構築である。そのエピソードはやや異色で、マネージャーを通して菅田将暉と初めて会ったその日に「コラボしたい。菅田くんのために曲を作ってある」と言ったのだ。コラボ出来たから結果オーライだが、菅田将暉は会って初日にこうした提案をされるのになかなか驚いたようで「シェーッ!」となったと語っている。人によってはドライ・打算的と捉えられてしまいかねないリスクのある関係構築方法ではあると思う(コラボを実現出来たのも彼の才能を見込まれた部分が大きいのだと思うが)

この他にも彼は異色のキャラとして扱われるケースが多いが、圧倒的才能によって人を惹き付ける。そしてそれは彼のずば抜けた才能によるものだけではなく、本人も述べるようにある程度は戦略的/打算的に立ち回るスタンスを取るようになったからだ。

 

「キャラ付け」されることを嫌がるスキゾイドではあるが、「向上心が強い」タイプのスキゾイドは、多少の "変なやつ" のキャラ付けは許容して、"ちょっと変だが独特の才能があるやつ" ポジションにつくことで人間関係を築くのが生存戦略の一つだと思う。

もちろん、本当にこういうのが必要ない人は無理に人と絡む必要はないが。