基本的に「ありのままの自分を受け入れてくれる人」なんてものはこの世に存在しないから、いつかそうした人間が現れてくれればいいな、みたいな幻想を抱かない方がいい。
産まれたばかりの赤子と親のような関係でもない限り、常時本能のままに振る舞うわけにはいかず、時々相手視点に立って何らかの役割を演じてコミュニケーションを取る必要がある。
これはインターネットで何か表現をしたいと思った時にも同じことが言える。
素人たちは「ありのままの姿を評価されているインフルエンサー達が羨ましい」といった理由、もとい幻想を抱いて参入を夢見るのだが、ありのままのように見える彼らの姿は、実のところ研究され編集され加工しつくされた姿である場合がほとんどだ。
感覚のままに作っているように見える人であっても、自然と他者視点を自分の中に内在させて推敲するセンスが身についている。
それを凡人が真似したところで1ミリも需要のない誰得のゲテモノが出来上がるのがオチだ。
死んだ黒髪ピピピも言っていたが、ありのままの弱さは他人を苛つかせる。
弱さの自己開示を純粋にやると、普通に嫌われて終了
というよりか、装飾ゼロの弱さは人をイライラさせる為、上手な加工が必要なのだ
僕は弱さの部分を褒め称えられてきたけれど、あんなモンはすべて調理済みの弱さなのである
別名、正直な弱さに見える羊頭狗肉
まずくて幸せも舌をべーしちゃう!
核心を突いた言葉だ。
その意味でいうと、自分は真の意味で他者に共感されるコンテンツなんてものは1回も世の中に出せた試しがない気がする。
放出するコンテンツのあらゆるものは、尽く自分の「加工していない弱さ」に由来したものであって、アク抜きもされておらず、ひたすら気持ちの悪い自己愛の臭気を漂わせている気がする。
ありのままの弱さを自己開示することで人が集まったように見えても、その人もまた自分に共感してほしいというだけ、自分に構ってほしいというだけであり、あなたのコンテンツに本質的面白さも見出していないし興味もない、というパターンが多い。
しかしだからといって、他者に共感されることをベースにして、コンテンツの受け手の気持ちを考えてコンテンツを作り上げていく…そういったキャパシティが今はない。そんな言い訳がましいキャパシティのなさもまた、他人を苛つかせる無気力な自己愛なのだろう。
…と、ここまでインターネットにおける表現について言及したが、インターネットでエンタメ的コンテンツを出す意味も薄れてきているのかな、と最近は思う。
人類みなが、SNS上での諸々の数字のインフレだったり、インフルエンサーの短命さ、虚構性に薄々気づいているような気がしていて、SNSで有名になることで何か良いことが起きるのではないか、みたいな幻想が崩れていってる気がする。
Twitterのウン千万インプレッションだったり、Tiktokのウン百万再生だのなんだのは、どれだけ大量の人間の数秒を無駄に消費させたかを示す不名誉な指標なんではないか、とたまに思ったりもする。
ひと昔前の人間に今の人類全体を見せたとしたら、現代人のSNS映えを意識した行動原理はさぞかし奇妙な姿に写っているだろうなと思う。
「ありのまま」の姿とはまた別の話になるが、こうした姿もまた気色の悪い方向に向かっていってるのかもしれない。