今週の土日も、無駄に時間が過ぎてしまった…。
外出は近所のまいばすへの買い物だけ。最近こんな過ごし方ばっかりでまずい。仕事も良い方向に向かっているとはいえない。
とはいえ、健康に生きての平和に休日を過ごせているだけで幸せな気もするけど、ASD+ADHD傾向によって、悪性のネットサーフィンに時間を消費してしまっている+認知の歪みが起こってしまっているので、幸福度が下がっているのだよな。
アスペは競争意欲がとても強くて、「一つの軸で人間の優劣が判断できる」と思ってしまう。
例えば、受験が好きな人間は学歴で人の価値を判断しようとする。芸能人やアーティストになって目立ちたい人間はSNSのフォロワー数で人の価値を判断しようとする。お金が大好きな人間は資産や収入で人の価値を判断しようとする。
なんにせよアスペは「競争によるドーパミンの獲得」が目的になりがち。だからコスパ主義の傾向があるし、人の気持ちが考えられない。
実際は、一つの軸で人間の優劣はつけることはできない。無数の軸がある。
競争意欲の強いアスペルガーは、自分が普段測っている物差しで人の価値なんて判断できない、序列など付けられない、という事実に直面すると、生き甲斐を引っこ抜かれたような感覚になるから、そこから上手いこと目を逸らそうとする。
一番苦しいのは、「定型発達と自分が明らかに違うことを認識せず、人一倍強い成功や幸せを望んでしまうタイプのアスペルガー」だと思う。
定型発達が普段のコミュニケーションで日常的にセロトニンを分泌しているのと異なり、心の底で不満が蓄積しているから、そこで味わえなかった分の幸せを補うかのようにドーパミン的快楽を求めてしまうのだと思う(素人の想像)。
ただ、歳を取るとそのことがメタ認知出来るようになるし、重めの病気に罹って苦しむ経験を経ると、そうした競争への囚われが弱まり、生きてるだけで幸せなんだと思うようになったりする。
ここ最近、自分に対する解像度がかなり上がってきてる感覚がある。
具体的に言うと、俺って明確にアスペ(≠ADHD)に該当するのかな?ということ。。
解像度が上がったおかげで、なんとなく感じていた生きづらさに対する対策も立てやすい。
高校の時、重度アスペルガーで度々問題を起こしていた、話し方も声もふるまいも全てが「かなり変わった子」(ちょっとタイプを変えたルシファーみたいな感じ)がいて、ああこいつは自閉症なんだな、自分はこれとは違う、と思ってた。
しかし自分も中~軽度であれ、あの子と同じタイプの特徴を持っていたのだと今更気づくなど(正確には違うのかもしれないが)。
自分は変わった動物だということを認識して、無理に定型発達の人間と同化しようとすると逆に不幸になるパターンもある、ということを把握しないといけないなと思った。
でもまあ、別に俺は発達障害同士での傷の舐め合いをしたい訳では無いし、むしろ「俺はアスペだ!発達障害だ!」とかプロフィールに書いて、自分の至らなさを障害のせいにして言い訳したいのでもない。
明確に該当するならそれをまず受け入れて、特徴と対策をきっちりと把握して、自分の人生も自分以外の人間の人生も建設的な方向に向かわせたいのだよな(という発言がちょっとASDたる所以なのかもしれないが…)。
さすがにこのレベルだと、生きてて疲れないか?と思ってしまうな。。俺も疲れてるけど。──ずっと学年1番の成績をキープしていた山口さんのレベルだと、同級生たちが「私より勉強ができないんだから」と見下すようなことはなかったですか?
山口:そんなことは考えたこともなかったですね。ただ隣にいる人に勝ちたい、その一心なんです。この負けず嫌いはいまだに続いていて、私、動く歩道でも「この人には負けない」と、ひとりふたり相手をマークして、絶対に負けないように歩いていますもん(笑)。
──動く歩道は勝負するためのスペースではないですよね(笑)。
山口:いやそれでも絶対に負けたくないです。特に気にしているのは、東京駅の動く歩道に続くスペースですね。歩道の手前にエスカレーターがあるんですけど、そこから私の戦いは始まっている。しかもそのエスカレーター、時間帯によって速度が違うんですよ。この事実に気づきながら、遅いほうに乗って、ライバルに抜かれていくときの気持ち……。二度とあの屈辱は味わうまい! と思います。
昨日は仕事を休んでしまった。花粉症なのと、ここ最近の食生活の乱れが祟って、熱と倦怠感があった。
とにかく、頭がボーっとしていて難しいことを何も考えられない。
体調が悪いと決まって憂鬱な思考に陥る。
30歳以降生きられないんではないかという不安に染まってしまう。流石に最近はすぐに「死ぬかぁ」みたいな気持ちにはならないんだけども。自分の生まれ持った器質的に、いつまた精神が堕ちていくかわからないので、精神が健全なうちにセーフティーネットを用意しておかないとだめだね。
14年前を思い出す。あの頃からニートになりたいと言っていた。責任を取らずに何となくフワフワ生きてたのが今になっても変わらない。
客観的に見て自分でも嫌気がさすけれど、自分が組織の一員として仕事を何もかも全うして何かを成し遂げる姿が想像出来ないんだよな。
こうやって昔を振り返ると、あーやっぱり自分はASDだったんだろうな、と思う。小さい時限定で、ちょっと独特なやつ、でキャラ付けして生き延びてこれたこと含めて。
まあそれをメタ認知したところで、肉体的には変えようがないんだけども。
30歳を超えても、60のおっさんからしたら若者の部類に入るのだろうけど、少なくとも30歳を超えたらある種の人生が終わる(少し大げさな言い方だが)。
30歳以降の俺でも出来るようなことを、今やっているヒマは、(息抜きの時間を除いて)そんなにない筈。ゲームとかゲームとかゲームとか。
できるだけ、精神的にも肉体的にも、若いと言える時間を長引かせる工夫をしながらも、今を生きたい。
「今が一番若い」というの、詐欺師の常套句みたいなフレーズだけど、事実っちゃ事実。
・自分自身をメタ認知する時によく「もし俺自身が俺の弟だったら、どういう目で見る?」という想像をする。
その時に俺自身に対して思うこととしては、「お前は基本的に面白い人間だけど、部分部分でクズな性格が出てる。時おり、自分の殻に閉じこもるというか利己的になる。環境が悪いと全く能力を発揮できなくなるから、そこらへん工夫したり頭を使ったりしないと社会で活躍するのは難しい。一人でいる時間が長いと悪い方向に行くから、適切に他人にアドバイスを求めるのがいい。まだ希望は全然捨てなくていいと思うが、そろそろいい歳してるから身の振り方を考えないとキツい」ということ。
・俺ってアイデアマン(悪く言うとADHDかASD)だから環境が成熟しきる前の「思考の"ロジックの"深さ」がそこまで要求されない場面は強い。
でも
「環境が成熟してきた時にいかに完璧を目指せるか」
「いかにロジックを積み上げられるか」
となると、とても弱いんだよな。
上っ面のテクニックとかハックでうまく現実を生き延びようとしがち。大学受験時代とか、最後まで二次方程式の解の公式が導出できず暗記して公式を使ってる状態だった。発想力が求められる正答率の低い問題だけ正解して、きっちりロジックを積み上げなければならない問題を落とす。
難しい問題解けたアピールして普通の問題を落とすタイプの人間は、社会に出てからお荷物になりがち。
「特異な自分」でいることが人生の目的になっているんだもの。「普通に生きて普通の人生を歩みたい」という欲求が彼ら(俺含む)にはない。
・最近、自分の上記の性質を自覚しているから、ロジシン全然出来ないのに「ロジックをちゃんとしなきゃ」みたいな完璧主義がひどくなって、結果何も発言出来なくなってしまってる。本当に頭おかしくなってきてる感覚。。