人生日記

思いつきの文章を綴っている日記帖

メメント・モリ

まだ僕は自分の死に方を想像できていないし、覚悟も出来ていない。

 

このブログでは何度か、人生に全く意味はない、と達観したかのような台詞吐いてはいるが、いざ死を迎える直前になったらまだ生きていたいと狼狽しながら死を迎えるような気もしている。

老衰で死ぬのか、何らかの病気にかかって苦しみながら死を迎えるのか、それとも突発的な事故で死ぬのかわからない。

 

こう書くとまずいかもしれないが、死ぬ直前にヘロインを吸ってみたいという思いがある。だがヘロインは合法の国は恐らくない。スイスに行ったら吸えるんだろうか?コカインとか大麻であれば、カナダとかに行けば吸えるのだろうけど、一番強烈なやつがいい。

それが叶わないのなら、せめて大量のモルヒネの中に意識を埋もれさせながら塵へと還っていきたい。

 

生への固執、悔恨

自殺出来ないということを前提に置くのであれば、「若い頃にああしておけばよかった」という後悔の中で生きないように、それぞれの年齢に応じたライフイベントを着実に消化して生きるべきだったのだろう。

しかし自分は男子校に入り、かつネット(音MAD等やイラスト等の創作)で青春を消化してしまったが、これは結果として対人能力に大きな支障をきたしてしまった。

部活には入っておくべきだったと思う。元々入っていた囲碁部(駒場棋院)は音MADを作り出すと同時に疎遠になってしまった。

 

30代以降に苦痛の中で生きないよう、この年齢になって回収しようとしているが、やや難がある。

 

20代に暗黒期を過ごした30歳以上の人間でも、20代の若者のように楽しく過ごしている有名人はいる(ゆゆうたやnanasaiなど)が、基本的にそれらは特殊パターンであって、若い頃特有の楽しみを先送りにしてはいけない。

30以降で幸福な人は、10代20代で年齢に応じたライフイベントを消化して生きてきた人である。それを消化せずに歳を重ねてしまうと、不公平感に埋もれた化け物が出来上がってしまう。山上徹也のような。

(これもやはり「肉体は人生の意味の無さを忘れ目の前の人生を生きる」という、少し視点を変えれば虚無になる生の上に成り立つのだが…)

 

死後に意識はないのだから、人生にやり残したことが無限にある状態でもいつ突発的に死んでも構わない筈だ。

だけど、その考え方をするなら今ここで即刻自殺しても構わない訳であって、そうできない人間の生存本能は「死ぬ前にやっておきたいことを消化してから死にたい」と思ってしまう。

 

…という事で、いつか自分のこれまでの人生の振り返り記事とかを一度書いてみたいかもしれない。

昔話をするのは決まって何も生み出せなくなった老害なのかもしれないが、特に中高時代にネットにばらまいてきた創作物について、友人家族含め当時のことをほとんど誰にも明かして来なかったので、これを喋る前に何らかの契機で突発的に死んだりするのは少しもったいないなと思っている。