最近めっきり音ゲーをやらなくなってしまった。
今、音ゲーをプレーしている人の大部分は「Twitterにリザルトを上げてどれだけいいねが貰えるかどうか」といった、SNSでの承認がどれだけ得られるかが基準の、酷く歪んだ行動原理のもとプレーしてしまっていると思う。自分がSDVXを触っていたのも、その酷く歪んだ行動原理の上に成り立つものだった。
リフレクビートはまだ友達とのまともな出会いがあった分マシではあったけれど(それでも時間の浪費要素は大きかった)、SDVXをプレーしていた5年間はほとんど黒歴史。一時のドーパミンに惑わされて、この期間でどれだけ他に費やす趣味の時間を捨て、どれだけ人間的な成長の機会を逸してしまったんだろう?考えれば考えるほど闇が深い。
もちろん音ゲーをプレーしている人間に限らず、現代人の色んな行動がSNSでの承認基準になっている部分はあるとは思う。
けれど、ことバーチャルなゲームとなると一時的な快楽の側面が大きい。そこに人間とのリアルな繋がりを生んだり、精神的な成熟を促してくれる要素がなかったりするなら、尚更。
少なくとも「SNSでの承認が無くなってしまったらその行動を起こさない」のだとしたら、それは酷く歪んだ行動原理に突き動かされていることになる。
不特定多数の他者からの承認でなくて、行動そのものの本源的な価値だったり1対1の目の前の人間関係だったりを構築しなければ。
「いいね数を稼げなければ負けた気がしてしまう」のが、SNSネイティブ世代の深層心理にあるのかな思う。
しかし、いいね数基準で動くこと、それは本当に人間の本来在るべき姿に沿っているんだろうか?いいね数が無かった頃、人間は何に大きな喜びや楽しみを感じて生きていた?
たとえ何十万フォロワーみたいな数字が得られたとして、りゅうちぇるや五彩緋夏のような死に方をするのは、在るべき人間の姿に沿っているんだろうか?
(まあ、どのような死に方をしても死んだら無に帰すから、生前のことは関係がないのだけれど、自殺をせずに生きている以上は理想的な死に方を追求しなければ、自分の中で矛盾が生じる)
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昔からそのポテンシャルがあった。
短期的な資格とか称号を得体がために、自分の中で軸がないまま、目の前の目的に向かって突っ走るポテンシャルが。
盲目的に東大を目指していた10年前から、そうした質の低い行動原理が変わらない。リアルでまともな人間関係の中で育ってこなかったから、自分の人生の軸に沿った長期スパンの目標に沿って物事を考えられない。
本当に今の自分は過去の貯金でしか生きていない屑のような状態だと思う。信念や熱意がなく、バラバラの状態で生きているから、昔から自分の軸を持って生きてきた人間に敵わない。
そしていくら言葉を書き連ねて言い訳しようが、肉体の弱さ、修羅場を掻い潜ることなく逃げてきた自分の弱さは変わらない。
けれどもこうして言葉に起こさなければ、そうした腐った自分をメタ認知することすらままならないので、せめて言葉に起こしてみる。