人生日記

思いつきの文章を綴っている日記帖

ベクトル

こんな寂れたブログの記事なんか適当に書いて適当に投稿すればよいのに、文章の体裁を整えたり推敲したりしないと投稿できない病に罹ってしまっており、また投稿の間隔が空いてしまった。自意識が肥大しすぎているのだと思う。多少タイポがあったり、文章表現がおかしかったとしても、誰も気にしない。意味が通ってなく要領を得ない文章で頭の悪さとASDみを存分に露呈したとしても。

 

肥大した自意識のせいで他者に目を向けられていない。「リアルでの繋がりがないから、インターネットに浸り、SNSで他者からのリアクションがないかを異常なまでに気にする」みたいな行動パターンに陥っていた過去があるから、悪性の自意識肥大症に罹ってしまっていた。

今の自分は1年前からしたら考えられないような改善、変化を遂げている。それでもやっぱり核の部分でその後遺症が全然抜け切っていない。

 

4ヶ月ほど前、職場の上司と、当時付き合っていた女に、同じタイミングで「貴方は視点が内側に向いている、自分本意な人だ」という指摘を受けた。それに限らず、最近色んな所で "ベクトルが内側に向いている人間" への指摘を目にして、それが俺によく当てはまるもんだから、ああ俺は本当にベクトルが自分に向いているんだなあ、ということをひしひし痛感する。

 

でもここでひとつ疑問が生まれるのは、こうして言い訳がましく文章に起こして自分を客観視したつもりになったところで、「俺は本当にベクトルが自分に向いているのを改善したいと思ってるのか?」ということだ。俺はベクトルが他者に向いた自分の状態を、果たして想像できているんだろうか。病院に通いながらも心の底では鬱病を治す気がなく、誰かが自分の人生全てを助けてくれることを待つような自己愛に陥ってる俺エモ鬱病患者と同じなのではないか。

 

内側に向いたベクトルを治せるかどうかというのは、その人間の人生の目的まで遡って治す気がないのなら、根本解決は出来ないような気がしている。結局誰のために生きているのか。「他者のために生きる」と言っている人も、それは突き詰めたら「他者が幸福を感じることが自分の幸福」になるから畢竟自分の為に生きていることになるのかもしれないが、そもそもそこに到達するまでに「他者のため」が入り込むことのなく全てが「自分のため」になっている人間は、即ちベクトルが内側に向いている人間なんだと思う。

 

恐らく、このブログで過去散々繰り返してきたようなニヒリズムが未だに自分の心の底に巣食っているから他者のために生きる境地に至れないのだろう。俺は精神状態が改善しても、未だに「生きる意味はないけれど自殺する勇気がないから生きる」状態なのが変わっていない。

その状態では「他者のために生きる」境地に至れないのも無理はない。生きる意味がないとわかっていながら、それでもポジティブな状態になれる人はいるんだろうか…?

 

近況

10月末は調子が良かったが、1ヶ月ほど経ち、また元気がないモードに戻ってしまっている。色々と徐々に回復させて、クリスマスと年末年始は幸せな気持ちで過ごしたいところだが。

自己分析をしないと、あれしないと、これしないと…とタスクを積み上げすぎている。後から振り返ってみれば、最も根本的な問題を解決したら、そんなことする必要なかっただろうという努力。クリティカルパスから外れたアドホックな犬の道の努力が多い。

あと最近は老化を感じつつある。自分は比較的肌が綺麗なのが取り柄だったが、最近はアラサー相応の肌の状態になっている気がする。引っ越してから急に酒と煙草の量が増えたからだろうか、それとも出勤のストレスからだろうか。