人生日記

思いつきの文章を綴っている日記帖

生の断片化

今日はあまり明るい記事ではないので、少し閲覧注意かもしれません。

先日、以下のようなツイートを見かけた。

これには深い共感を覚える。

40代・50代どころかむしろ、20代半ばにして既に、このような感情がとても強い。

 

40代・50代になった時の生き甲斐に想像がつかない。

子供がいれば、子供が生き甲斐に変わっていくのだと思う。自分が成し得なかった夢を、子供に仮託するなどして。

或いは輪廻転生を信じる人は、「死ぬまでの残りの人生を頑張ることが、世界を良くすることに繋がり、生まれ変わった後にも繋がる」というような考えを無意識下で抱いているから、頑張れるのだと思う。

人間は物質的存在であり、輪廻転生など存在しないと思っている自分としては、虚しい考えだなと感じてしまうのだが。

元来、死について考えることは、生きることを断片化してしまう。ずっと目的をもってやってきたはずの大小のことが、どこにも繋がっていないのだと知って、日常のあらゆる行為が、言葉が、バラバラになってしまう。生によって紡がれるはずの一つの物語を断片化してしまうのが死である。

寝太郎さんのこの、「死について考えることは、生きることを断片化してしまう」というフレーズが印象に残っている。

 

何かを頑張った先に、究極的に存在しているのは死だと感じてしまうと、そこでフッとモチベーションの糸が切れて虚無に陥ってしまう。

 

仕事を頑張る人たちは、なぜそんなにバイタリティを持てるのだろうか。頑張った先に「様々な動物的欲求の昇華ができる」報酬系が刺激されるのがあるんだろうが、大前提として生の肯定が存在しているんだろうなと感じる。

僕は逆に、根底に「人間の生に意味はない」…生の否定のようなものが存在してしまっているから、高次の欲求を満たす行為…仕事にもアカデミックなことにも、もはやこれ以上の興味が持てない。

 

「人間の生に意味はない」という思考を麻痺させてくれる程に、自分の本能と肉体が希求している分野でしか努力が続かない。(例を挙げると音ゲーがその1つ。)

 

人間は物質的存在であり、生きることに意味はないと思っているのなら、何度もブログにウジウジと生死に関する文章を綴るなどして未練がましく生を延長せず、即刻自死を選択しないと、筋が通っていないかもしれない。

でもやはり、特段病気でもなく、目立った肉体的苦痛が降り掛かっている訳でもないのに自死を選択するのは、肉体、生存本能が拒否してしまう。(生に意味はないという絶対的恐怖、精神的な苦痛は存在するのだが…)

若くして、生きることに意味がないというただ一点のみで自死に踏み切れる人がいるのだろうか。

(個人的に、imoutoidなどはそれが一因で自殺したのではないかと推測しているのだが。)