中高校生の時から、一流大学のリアルなコミュニティと繋がって、そうした大学への進学意欲を高める層と、インターネットの繋がりに無限の可能性を感じてしまう層が、ある種の格差の象徴なのだと思います。
— 瀧本哲史名言bot (@ttakimoro) 2023年3月24日
自分は幸運にも中学~大学は(一応)まともな所に行けたのだけれど、本質的には頭がよろしくなくて「インターネットの繋がりに無限の可能性を感じてしまう層」に該当するのだと思う。大学では結局アカデミックな観点で何かを深められることもなく、ネットでの繋がりに時間を使って卒業していった。
なぜ本質的に頭がよろしくなかったか?家庭環境および学校との物理的距離が社会資本に与える影響が思うより大きかったのと、あとはインターネットとゲームにズブズブ浸かってしまい「一流大学のリアルなコミュニティと繋がる」きっかけが持てなかったこと(どれくらいアカデミックな世界から縁遠かったかというと、中学から筑駒だったにも関わらず、駒場東大前の線路の北側にある建物が東大であることを高校に上がるまで知らなかった)。
そんな中学時代、当時とてもハマっていたボカロ曲の1つに「ANTI THE∞HOLiC」という曲があり、その作詞者であるGAiAさんは東大の人だったのだけれど、その人を「東大に行くなんて自分の全く知らない雲の上の人なんだろうなあ」と眺めていたのを覚えている。
成り行きで"ゲームとして"受験しただけの自分にとって将来的なビジョンは全く存在せず、そうした大学のアカデミックな世界は無縁だった。
両親は高卒で、アカデミックなバックグラウンドは皆無で、とりあえず子供に大卒資格を得させたかったのだろう、所に留まってしまっていたように思う(そうした表面的な所に留まったとはいえ、環境を用意してくれたのは僥倖だったが)。自分はとても鈍くて、同級生とのバックグラウンドの差を察知せず、アカデミックな世界と自分の地元の差を感知することも出来なかった。今振り返ると、同級生は中1から東大に行くことを視野に入れて鉄緑などに通っていた生徒も珍しくなかった(かたや自分は、流星のロックマンの公式大会の準備、ニコ動でボカロに東方、挙げ句の果てには修造MAD作りが中学生活の中心を占めていた)。
…話が少しズレたが、結局自分もインターネットに毒される凡人に帰着したんだろうな、と。
「インターネットの繋がりに無限の可能性を感じる」層は低リテラシー層や貧困層であることが、ここ2~3年になってようやく肌感覚でわかるようになってきた。ネットの向こう側にいるのは一人ひとりの人間である。リアルの世界がないとインターネットは成り立たないし、リアルの世界で何かを生み出せる強度のない人間がインターネットで馴れ合い、承認の交換をしても、長期的に何かが発展することはない。